vol.20 バリアフリー的論調で思うこと〜協創ud山田のつぶやき
教科書的 「×→○」な文章は逆効果!?
よく、バリアフリーの必要性を訴えている記事や文章に、「これ逆効果じゃないかな?」と思うものがあります。
例えば、
→車いすの人が道を渡ろうとしたら、見知らぬ人が近寄ってきて、手伝ってやると、いきなり車いすを押し始めて、断ろうにも断れなかった。頼んでもいないのに…。
→目の不自由な人が道に迷っていたら、案内してあげるよ!と、子供がいきなり白杖を引っ張って歩き出し、ひどく驚いた。だから、心のバリアフリーが必要…
という類いの文章。
端的に…×な部分を指摘し、○へ正す「廊下は走らず歩きましょう」的な教科書によくみられる論の進め方です。
間違った行動の原因は「不慣れ」
健常者と呼ばれる人が、障害がある人の手助けを躊躇する最大の理由は、「慣れていない」ことです。
歴史的に日本の福祉は、障害がある子供は「養護学校」に集め、教育を施してきました。
もちろん、“いじめから守るため”“障害にあった速度で教育を施すため”など、理由はあるでしょう。しかし、空間を隔ててしまって来たことで、
健常の子供と障害がある子供双方をお互いから隔離していたと、私は思うのです。
もちろん、障害によって生じるいじめは言語道断です。
しかし、身体の機能がうまく働かない、動かない、不自由がある人の存在を知ること、
大人がどのようにその障害のある子のフォローをしているのかを見せることができれば、
大人になってからの、そうした「不慣れ」による、悲しい出逢いは無くすことができると思うのです。
ちょっと話が逸れてしまいました。
私が思うのは、「不慣れ」であることを糾弾してもしかたない、むしろ、助けようと行動を起こしたことで障害がある人を困らせた…という順序で説明すると、行動すること自体を萎縮させることになってしまわないか?ということです。
ですから…
“車いすの人が街中で困るのは、主に段差のある部分です。2㎝の段差も、時には越えられない事があります。困っているなと思った時は、まずは、「お手伝いしましょうか?」と声をかけ、その後に、どうしたら良いか、車いすの人自身に聞けばOK!”
“目の不自由な人にとって、白杖は、進む方向の道がどんな風なのかを知るための、いわば目のようなもの。だから、いきなり白杖をつかんで引っ張ったりすると、目かくしされたようになり、びっくりさせてしまいます。まずは声をかけて…”
と、手助けする気持ちの芽をつむことなく、そうした気持ちを表す最良の方法はこうです…と、「知らない」ことを「知っている」に変えていく情報発信を、私はしていきたいと思っています。
2019.8.6