「心のバリアフリー」って何? no.122
突然ですが、連想ゲームを一つ。
想像してみてください。
今、あなたはバス停にいます・・・・・ふと気づくと周りの人の様子が変です・・・
ジロジロ見る人がいるかと思うと、あからさまに目を合わせないようにする人もいます
やがてバスが来て、周りの人が乗り込みますが・・・・
あなたは乗れず・・・バスは行ってしまいました。
ユニバーサルデザイン出張授業に出かける時には、ほとんど毎回皆さんに、このゲームにトライしていただきます。
さぁ、目を開けて。
今どんな気持ちですか?
「寂しい」 「悲しい」「悔しい」「どうして自分だけ?」
「なんで?」「 どうして?」「 なぜ、自分だけこんな思いしなきゃならないの?」
大人から子供まで誰に尋ねてもほぼ同じ、こういった感じの答えでした。
そうですよね、決して楽しい気持ちにはなりません。
あがった声をボードに書き出し、さぁ種明かしです。
それが・・・時として、障害がある人が味わっている気持ちです。
* * * * * * * * *
「心のバリアフリーが大切」と言われます。
特に東京オリンピック・パラリンピックの招致が決まった頃からは、国も本腰をいれ、
内閣府などが主導する形で「心のバリアフリー」啓蒙キャンペーンが、盛んに行われてきました。
さて、では、心のバリアフリーとは・・・いったい何でしょう?
なかなか一言で言い表すのが難しいですが、やはり「障害がある人を理解する」ということ・・・でしょうか? その「理解する」とは、いったい・・・。
困っていたら手助けする?
坂道で車椅子を押してあげる?
目の不自由な人を案内する?・・・・
それについて、
先日参加した「共生フォーラム」で、興味深いデータが紹介されました。
様々な障害がある人に聞いたアンケートで、「あなたがもう一度行きたいと思う店はどんな店ですか?」と、尋ねたら、
「床がバリアフリーだった」「自動ドアやエレベーターがついていた」という物理的なことよりも
「快く受け入れてくれた」「親切に接してくれた」
という、「接し方」に関するものが上位を占めたそうです。
物理的にバリアフリーであることよりも、まずは丁寧に接してもらったことが2度3度足そこに行く理由になる。
あれ?でも、誰か他の人に対して丁寧に接するって、「当たり前」のことですよね?
では、障害がある人は丁寧に接してもらっていないのでしょうか。
実は、前出のバス停のエピソードのように、
困っているのに周囲は気づいているはずなのに、「傍観されたり」「目をそらされたり」「入店を拒否されたり」
誰も言葉をかけたり、フォローする人が現れないことは多いのです。
健常者の側にしてみれば、「どうしていいか分からない」「良い格好してると思われたくない」「かえって迷惑なんじゃないか」と、躊躇しているだけであってそんなつもりはなくとも、障害がある人にとって、無表情・無関心・無行動が心に刺さるのです。
技巧以前。
まずは、バス停であなたも感じた
「寂しい」 「悲しい」「悔しい」「どうして自分だけ?」
「なんで?」「 どうして?」「 なぜ、自分だけこんな思いしなきゃならないの?」
を思い出してみてください。
「共感」できれば、「なんとかしたい」と、心が動きます。
心のバリアフリーは、何かをしてあげる/してもらうことではなく、
まずは、「どうしました〜?」「何か手伝いましょうか?」「できることはありますか?」と、
普段、道に迷っている人に声をかけるように、普通に、丁寧に、当たり前に接すること。
その後どうしたら良いかは、本人に聞けばいいんです。
* * * * * *
「誰か他の人がする」のではなく、まずは「あなた」から。
「当たり前の心」を呼び起こすことが、心のバリアフリーです。
2020.2.10