vol.2 バリアフリーとユニバーサルデザインの違いって?
言葉の変遷はあれど・・・
実は日本ではこれまで、似たような意味合いで、
「ノーマライゼーション」「バリアフリー」「ユニバーサルデザイン」、昨今は「ダイバーシティ」と、フィーチャーされる言葉が変遷してきました。
ノーマライゼーションやバリアフリーは、心身の障害の有無が主な焦点だったのが、
ユニバーサルデザインで、障害の有無だけではなく、年齢や性別の違いによる身体状態の違いまで範囲が広がり、さらに
ダイバーシティにおいて、障害の有無、年齢、性別の他、国籍・人種・言語、そしてLGBTとその包括する範囲が広がっていきました。
要は、どの言葉も、
物事に対するアプローチの仕方が、人によって「一般的」「当たり前」と思われている手段や方法とは違うのを排除せず、共に使えるよう、共生できるようにしましょうという…いわば、違いをみとめ、社会の柔軟性を広げようという発想です。
戦後の日本は、働き盛りの健康な男性=Mr.アベレージを基準に国や街が造られてきたこともあり、段差や重い扉があるのが当たり前でした。
「思いやり論」が逆に心に段差を生み出した!?
バリアフリーは、そうしたすでにあるバリアを、不便を感じる人達のためにフリー(無くす)にしましょうという発想で、
ユニバーサルデザインは、アプローチ方法が違う様々な人達に考慮し、作る前から段差や障害物を作らないよう設計しようという発想。
なので、発想の成り立ちに違いはあれど、
「多くの人に利用可能で、できるだけ困難やストレスを感じないようにする」という目指す結果は同じだと私は思っています。
ちょっと厄介なのは、日本ではそうした試みをこれまで、「思いやり」や「優しさ」に訴え、カバーしようとしてきたところ。そのことにより、「してあげる」「してもらう」的、あたかも主従の関係のように、人同士の気持ちの間に大きな段差を作ってしまいました。
バリアフリーにしろ、ユニバーサルデザインにしろ、多くの人が共生するための「合理性」だと私は思います。
実は、そうした合理性への試みは、障害がある側、差別や段差、困難を感じている人の側からすでに様々な新しい方法が試され、解が導き出されています。
バリアフリーフロントでは、そうした合理性に基づいたバリアフリー、ユニバーサルデザインの情報を発信して行きたいと思っています。
2019.7.14