vol.34 障害がある人は「かわいそう」じゃない〜心の中の呪縛
どこで出来た?「かわいそう」と思う心の呪縛
私が福祉系の取材を始めたのは、放送の仕事を始めて1年が過ぎた頃、27才の時でした。
以来、老人福祉から障害者福祉へと範囲を広げて取材し、様々な障害がある友人もできました。
今でこそ無くなりましたが、取材を始めた頃、常にぬぐえずに苦しんだのは、
「障害がある人はかわいそう」という固定観念でした。
思い起こせば小学校の頃、当時「特殊学級」と呼ばれる障害児が通うクラスがあったはずなのですが、6年間で一緒に遊んだり学んだ記憶がなく、
あるのは、廊下の先を車いすの子がすっと通り抜けていった光景をわずかに思い出すばかり。
クラスで宿題を忘れたり、いたずらをする子に対し、先生が「そったらことすると、特殊学級にやるぞ!」と、言っていたことで、「特殊学級は行ってはいけないところ」とすら思ってしまいました。その上…
「障害がある子や人はかわいそうだから、助けてあげましょう」と、道徳かなにかの時間に聞かされ、「自分達とは違う人達」と、知らず知らずの内に頭の中で区分けする思考ができあがってしまったのだと、今にして思います。
当時の教師も、そういう意味では無知だったと思いますが、見事、小学校の頃にはそうした観念ができあがっていたという訳です。しかし…
「かわいそう」は思考停止を招くやっかいもの
27才で取材を始めて以来、種類も様々な障害当事者に会って話をする内、
「かわいそうなんかじゃない」と思うようになりました。
「かわいそうに」思ったり、心を寄せたりする優しさは大切ですが、
ある種「かわいそうに」と思う回路は、思った途端に思考停止を引き起こすやっかいものです。
「気の毒に思う」という意味を越え、「できる自分達とはちがう」と、区分けし、哀れむにとどまる傍観者にしてしまいます。
そりゃ、階段を登ることが難しい 足に障害がある人は大変ですが、生きて行く上でその現実と向き合い、なんとかしようとしているその人に対し、できることを手助けする。足が悪かろうと、目が目が見えなかろうと、一緒に遊びたいと思えば、その人に合った方法でなんとかしようと思う。
あなたの心には、そんな、「かわいそう」→思考停止に陥らせる呪縛はありませんか?
子供の頃に知らず知らずに作られた呪縛を、大人になってから取り去るには、相当の時間と労力を要することは、自分が身をもって体験してきました。
一番の解決策は、そうした呪縛に陥らせない教育だと思って居ます。
でも、大人だって気づくことができる!気づいた途端に呪縛が解ける!と信じ、情報を発信しつづけて参ります。
2019.8.26
…と、ここまで書いて、どうにも書き切れていない感がぬぐえません。今後も、もうちょっと深掘りしていきたいと思います…。今日はここまでにて。