vol.55 バリアフリーの“誤解”

バリアフリーだから来た訳ではない車いすの少女

一昨日の9月22日に旭川で行われたバリアフリー映画祭に出かけた時、上映後に、主催者が設けた「感想を聞く会」で耳にした、ある車いすの少女の言葉が心に残った。

それは…

「お友達がその映画ことを話しているから、私もそのおしゃべりの輪に入りたくて来た」

旭川の映画祭の魅力はなんと言っても、「最新作」を上映すること。

バリアフリー映画祭のチケット半券

上映されたのは、新海誠監督 最新作「天気の子」

音声ガイドや字幕を用意する関係で、これまで開かれてきたバリアフリーと銘打った他の映画祭では、すでにビデオでも発売されているような旧作であることが多かったので、こうした声は、旭川ならでは。

ちょっと理屈っぽくなって恐縮だが、バリアフリーという言葉は、

そもそも出来てしまったバリア(障害物・障壁)をフリー(無くす)にすること。

健常者の側は、ついつい、その出来てしまった=作ってしまったバリアに対し、フリーにしなければ!と、思い詰め、バリアそのものを無くすことが目的と思い込んでしまってはいないだろうか。

 

以前、伊勢志摩バリアフリーツアーセンターの理事長であり、敏腕水族館プロデューサーとして全国・海外で活躍している中村元(なかむら・はじめ)さんにインタビューした時、こう話していた。

「伊勢神宮に動く歩道なんてつけたら伊勢神宮じゃない。

スロープだらけの和風旅館は和風旅館じゃない。

ちょっと段差があったら、“私ら従業員で持ち上げますから”で良いじゃないですか。

障害があろうとなかろうと、

人は、バリアフリーな場所に行きたいんじゃなくて、旅を楽しみたい

ってことです

バリアフリーはホスピテリティじゃない!

様々な場所を取材してきて、バリアフリーが進まない・進められない現場には、こんな本音があるように思う。

出来てしまったバリアを無くすのは、正直大変だ。お金もかかる。だいたい自分がそのバリアを作った訳じゃ無い。障害があるのは気の毒に思うが、障害者は、バリアフリーじゃないと文句を言うやっかいな存在だ。

 

ここで質問!皆さんはお金をかけて北海道に来た観光客だとします。

名物の札幌ラーメンを食べに行こう!と思う時、

①行列ができる人気店だけど、入り口に段差がある店

②バリアフリーな店だけど、人気はイマイチ

の店、どちらに行きたいでしょう?

おそらく、ほとんどの人は①。

それは障害があろうがなかろうが同じです。

映画祭を訪れた車いすの子供達

「お友達と一緒に同じ映画の話をしたい」

前出の車いすの少女は

バリアフリー上映だから映画を見に来たのでは無く、

お友達が「天気の子、もう見た?」「見た見た!あの、空のシーン凄かったよね!」

と会話する中に入りたくて上映会に来たのだ。

バリアフリーじゃないと文句を言っているのではなく、障害に関係なく、

楽しいものを楽しみ、食べたいものを食べ、行きたいところに行きたい!という気持ちを叶えたいだけなのに、その手前に、バリアがあるから、その機会を得ることができないのだ。

バリアフリーじゃないと文句を言っているのではなく、ささやかに、みんなと同じ会話がしたいーーーー

そんな声に触れた時、“やっかいだ”と思うでしょうか?

なんとかしたいと思うのが人情ではないだろうか。

バリアフリーは、文句を言われてすることではなく、

ささやかな当たり前をかなえること

それこそがバリアフリーに対する最小であり最大の意義であり原動力であると私は思う。

バリアフリーは、ホスピタリティではなく、ヒューマニティなのです。

 

2019.9.24

 

 

 

 

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