コラムvol.115 無垢な心
今、2016年7月に起きた津久井やまゆり園事件の裁判が行われています。
様々に考えさせられる中で、
昨日、紹介されていた遺族の言葉を聞いて思い出したことがありました。
それは、「知的に障害がある娘の存在が癒やしだった」という言葉です。
かつて、uhb北海道文化放送で「石井ちゃんとゆく!」というユニバーサルデザインをテーマにした番組を制作していた時、
幾度か知的に障害がある人達の施設に取材に伺い、その時に感じた気持ちを北海道新聞のコラム「朝の食卓」に書かせて頂いたことがありました。
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北海道新聞 朝の食卓「優しい気持ちとの遭遇」より
「健常の人は、どうして優しい気持ちじゃないの?」
知的に障害がある女の子からの何気ない質問に私は一瞬たじろぎ、
「そっかぁ、いつもは優しい気持ちじゃないかも。ならなきゃね」と言って一緒に笑った事がありました。
(中略)
私達スタッフは、知的に障害がある方々の施設を訪れ、会話し、撮影を終えて帰る時、「どこか癒された心地になる」という共通の経験を何度もしました。
その無垢な心や無邪気さに緊張をほぐされるのでしょうか。
知的障害は、人によりその度合いが様々で、体調や気持ちに好不調の波もあり、
取材したほんの短い間に感じた事を軽はずみに美化してはいけないと思います。
しかし、私なら10分で飽きてしまうような軽微な単純作業を根気よくいつまでもやり続けることができたり、
ハイレベルな細工物を精密に再現・反復できたり、プロも唸る無二の芸術美術作品を生み出す人も。
できない部分だけを見て障害者と線引きするのではなく、できる部分に焦点をあて、それを社会資源として活かすことができれば、その人達はもちろん、私達も優しい気持ちでいられる社会になるのかなと皆さんに会う度思うのです。(2012.2)
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これは、実際に経験しないとなかなか理解しにくい事かもしれませんが、
実際に気持ちが「ほっこり」する…のは紛れもなく本当の話。
とはいえ、大人の身体を持ちながら、心は幼子のように無垢であることは、社会の中では、本人も家族も生きづらさを感じ、やまゆり園のような施設に頼らざるを得ないのもまた現実です。
植松被告も職員として働き始めた頃は、入居者の皆さんを「可愛い」と言っていたと言います。
それがどうして、あのように極端に偏った思想を持つに至ったのでしょう。
私はむしろその経過に強い興味を覚えます。
何が、彼にああした行動を起こさせたのか。
感性のねじれを生じさせたのか。
障害者を嫌った本人がなぜ精神に障害をきたし、邪悪な思想に飲み込まれてしまったのか。
そのプロセスにこそ、今の社会に横たわる、植松被告にだけではない、誰にでも起こりうる本質的な解決すべき問題点があるように思うのです。
2020.1.17