vol.9 “障害がある人”…は他の国の人?
“障害がある人”は、他の国の人?
7月17日の投稿で、「障害者」という呼称は、
“身体の一部に障害がある人”という意味をはるかに越えて、まるで“別の国の人”とでもいうような、とてもかけ離れたところに追いやる強い疎外感を含んだニュアンスがあるように思えてならなかったからです。
と書きました。
それは、障害がある人に街中で出会った時の人々の反応が、つくづく外国の人に出会った時の反応に似ている…と思うからです。
視線を合わせないようにしながら、「話しかけられたらどうしよう?」「困っていたとしても、どう接して良いか分からない…」と、心がざわつきます。
これが、多少なりとも英語が話せる人なら、
May I help you? Do you need some help? などと割と積極的に話かけますよね?
しかし、接したことがない、言語が分からない…場合、気づいていても、行動できません。
不思議ですよね?障害がある人は日本人なのにです。
食べたもので身体は出来ていて、得た情報で頭は出来ている
でも、実際は無理もありません。それは、障害がある人と接したことがないからです。
私は、13年間ユニバーサルデザインをテーマにした番組を作ってきた中で様々な障害がある人に出逢い、接し、会話してきました(もちろん、日本語で!)。
私から見てとても興味深かったのは、番組のリポーターさんの変化でした。
彼女も番組が始まった当初は、障害がある人に参加頂いて撮影する時、どこか遠慮や何か失礼をするのではないか?という不安な気持ちを持って接していました。
それが13年経つ内、見事な“バイリンガル”になっていました。
人の身体は食べたもので出来ていて、頭は得た情報によって作られています。
経験のないことや未知なことへは、いくら言葉が話せても、コミュニケーションする時に躊躇する気持ちが先に立ちます。
「心のバリアフリー」と言いますが、それは、突発的に、健常者が障害がある人に何かをしてあげることではなく、
教育現場などで、日頃から接する機会を作ったり、互いを隔離しない街作りや仕組みによって進められるのではないかと思います。
2019.7.24